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フツーの人のためのフツーの勉強

学びを全ての人の手に

私がドクターになるまで~ドクターコースの6年間~

こんにちは。ドクター・ハマーです。

今日は手短に私のドクター取得までの道のりを紹介したいと思います。

目的としては、ふーん。こんな感じでドクターって取ろうと思えば取れるんだ、とイメージしてもらうことです。

では早速。

 

絶対必要なコト

私が学んだのは日本で言えば経営学。英語で実施されていたコースの名前は「PhD in Management」。マネジメントの中でも、組織論、組織行動論、社会心理学について、中心に学びました。

コースに志望届を出す時には、詳しい学問分野の名前や違いは知りませんでした。

ただ、組織で働く人々の行動原理について詳しく調べてみたい、というのが志望動機です。

非常に漠然としていますが、大切なことは、調べてみたいことがある、ということ。

どう調べるか?は、それを学びに行くわけですから、それほど気にすることはありません。

そして、日々学ぶにつれて様々表現が変わっていく「調べたいこと」ですが、それについてともかく書いて表す、ということを絶対に止めないコト。これがとっても大事です。

 

指導教官

指導教官で長い研究の道のりが大きく左右されることは間違いありません。

ただし、職が得られるかどうか?は関係ありません。

入学当初はポルトガル人の先生が指導教官だったのですが、入学後2年目に、何か先生同士で諍いがあったらしく学校を移られ、以降オーストラリアからの客員教授に指導していただきました。

大事なことは「調べたい」と思ったことについて、書いて表すことを絶対に止めないこと、と言った通りで、その書き続ける、を精神的に、そしてできれば技術的に、後押ししてくれる教官と出会えると、鬼に金棒です。

指導教官とのコミュニケーション、論文指導については、諸説・意見あるのですが、いずれにせよこちらが書かないことには指導も何もないわけで、やはり読んでもらえるカタチにして提出するしかないのではないか?

それが私の考えです。実際、私は指導教官とは全てメールで論文を提出し、それにコメント・かなり懇切丁寧な編集・添削をしていただく、というやり取りでした。

コース紹介

実はほぼ必修の科目などはありませんでした。

いわゆる単位による認定制度がなく、学位(博士号)認定のための論文作成及びこれに対する口頭試問があるのみでした。

とはいえ、コース開始後2年ほどで、スクリーニング(建前上は進捗確認)目的の筆記試験がありました。

その後、研究プロジェクト計画のプレゼンテーションがあり、私はこれに「不合格」と言われました。

その理由が実は発表内容にないことが分かっていたので、ネゴって居座り続けたわけですが、その詳細はまた別のポストでお話したいと思います。

ここでは、筆記試験もプレゼンによる口頭試験も、あくまでも学部としてのスクリーニング目的で、リスボン新大学による学位認定手続きとは無関係であった、ということだけ記しておきます。

必修はなかったと言いましたが、私が入学した翌年明けに、後に指導教官となっていただいたオーストラリアからの客員教授の短期集中ゼミ(約3週間)があり、これはためになりました。

 

  • 当時15名ぐらいいた同コースの博士候補生が対象。
  • 一冊の課題図書(”Doing Exemplary Research”。過去のマネジメント研究論文でもエポックメイキングといえるものを編集者が選び、当時を思い出して各著者のコメント、そして、同業他者の評論がセットで収められたもの)について、各自好きな論文を選んで発表。 
  • 次に、各自の研究プロジェクトで参照している文献の中でもメインといえるものを中心に、何故自分はその研究をしようとしているのか?、それにその文献がどう関連しているのか?を発表。
  • 仕上げに発表内容を4000語程度のエッセイにまとめたものを2本提出する。

 

という内容でした。

特に最後のエッセイは、懇切丁寧に見ていただき、コメント・評価も思いの外良く、以後「不合格」事件含め苦しい時期を乗り越える原動力であり続けました。とにかく書いて発表だ!と。

やはり大事なコト

指導教官は年1、2回訪れる客員教授、コース指定の授業もなし。やることといえば博士論文を書くだけ。

そのようなフリーな状況でしたので、ともかく書かねばならない。書きさえすれば終われる。そう言い聞かせ、自らの尻を叩き続けた約6年間でした。

博士論文というのはそれなりに膨大で時間もかかります。一気に書き上げるなんて野心的過ぎます。

段階を踏まねば、ということもあり、自ら学会を見つけ、論文を提出し、発表する。

これを約4年続けました。学会はだいたい夏頃に年一回。ノルマとして年2つの発表論文を書くこととしていました。

年2本の論文だけ?

これが中々タフで、毎年年明けすぐが締め切りなのですが、年末年始はいつもヒーヒー言ってました。。。計画性のなさが主な原因ではあったのですが。。。

ともかく書き続けてはいました。

2015年は、学会論文2本から、なだれ込むように博士論文と続きましたが、ほぼずぅっと書き続けていたので、博士論文だから特にきつかった、ということはありませんでした。

そうなんです。

人文社会科学系は何はともあれ書いて論文の形にして発表すること。

それだけと言ってもいいと思います。

なぜここまで「書け書け」というのか?といいますと、別に実績を作れ、ということではありません。書くと考えがゆっくりとでも伝えやすいカタチに整っていくからです。結局難しいのは自分のアイデアを自分自身で納得したカタチにするだけではなく、他の人に伝えられるようになること。

私は母国語でない英語を使っていたので何度も何度も書き直さなければならないと思っていたのですが、そうではなくて、自分の理解を深め、そして他者へ伝えられるようにするために書き続けなければならない、と確信しています。

とかいいつつ、他者へ伝えられるカタチの方はまだ途上なのですが。。。

 

はじめまして

ドクター・ハマーと申します。

このブログでは、知的オーソリティーにチャレンジをしてみたいと思います。

知的オーソリティーって??

私は2015年秋にポルトガルリスボン新大学経済学部(Schoold of Business and Economics, Universidade Nova de Lisboa)で無事博士号(経営学)を取得したのですが、その時既に45歳。アカデミック界隈で職を得て生きていこう!というには明らかに老い過ぎています。

年齢云々というよりも、キャリア、研究実績、指導経験等々で、純粋培養の方々とは比べられるわけもなく、よって易々と職になどありつけまい、との認識です。

そもそも40を前に博士課程なんて、アカデミックに殴り込み!という気持ちがあったわけもなく、ただ自分自身の興味から勉強したいことがあった、というだけなのです。

じゃあ40まで一体何をしていたんだ?ということなんですが、国際協力畑でサラリーマンと最後少し契約で働いていました。

長いようで短いそこでの経験というのは、職を得る上では財産ではあるのですが、いかんせん、勉強したいと思った動機が、国際協力という仕事に対する疑問だったもので、おいそれと戻れる感じでもないのですね。

アカデミックもダメ。唯一の経験有分野もダメ。

どうやって生きていくつもりなんだ?

チャレンジです。

インターネットもここまで普及して、各自学ぼうと思えばかなりな素材にアクセスできる。

大学通って学位を取らなければ知識を扱えないような時代ではもうないだろうと。

実際長々とほぼ6年をかけてドクターになってみて感じるのは、世間の学者って別に”研究命”ってわけではなくて、頭良いってだけでそこにいるんだな、ということ。

知識への純粋な愛なんて。。。

そんなのは”キレイごと”なわけです。

生きていく糧を得るのが先決。

理想(寝言)はそれを得てから言えと。

それでいいのか???

知識の番人を任じておきながら、知を愛していないとは何たる矛盾。いや詐欺ではないのか???

「知を愛する」なんていうとちょっと大げさですが、要するに学びたいって思ったら、学べばいいではないかと。

クォリティが問題だというのなら、”立派”と認められている人のを真似ればいい。

勿論簡単なことではない。簡単なら多くの人がもっと大学に頼らず研究をしていることだろう。

でも、研究なんて、いつやりたい!と思うのかなんて分からないし、大学に勤めているから研究したくなるのか?というとそんなわけもなさそうだ。つまり、大学に勤めている人々は、その多くの時間を研究なんてしたいって思ってなくても、仕事上仕方なく研究していることにしている場合も結構ある、といいうこと。無理もないです。

はっきりいいましょう。

現在人文社会科学系アカデミック が生み出している論文群は、おカネを払ってまでアクセスしなければならないものは1割もない、と。

そうは言っても、1割未満でも見るべき知識があるのなら、それを見分けられることが大事です。そのためには、アカデミックの流儀を知る必要があります。手っ取り早いのは大学で学ぶことですが、1割未満しか有益な知識を生み出してないような人に教育を受ければどうなるでしょうか?

メリトクラシー

よい成績評価のみを目指し、社会的使命感などろくにない、イタイ個人主義者たちを延々増産し続けるだけでしょう。結果はご覧の通りのモラルなき社会。

人文社会科学なんてまさに人間について勉強。それを勉強すればするほど人間にやさしくない世界が広まるなんて、愚かといっても度が過ぎる。

学びたいと思ったときに学べて、へんてこりんな作法や評価に惑わされず、一定の答えっぽいものが得られれば、自然と知識や知識探究活動への愛も増していくのではないか?

諸事情によりくすぶっている人に、突破口を開けるようなお話を提供できればと考えています。

どうぞよろしくお願いいたします。