はじめまして
ドクター・ハマーと申します。
このブログでは、知的オーソリティーにチャレンジをしてみたいと思います。
知的オーソリティーって??
私は2015年秋にポルトガルのリスボン新大学経済学部(Schoold of Business and Economics, Universidade Nova de Lisboa)で無事博士号(経営学)を取得したのですが、その時既に45歳。アカデミック界隈で職を得て生きていこう!というには明らかに老い過ぎています。
年齢云々というよりも、キャリア、研究実績、指導経験等々で、純粋培養の方々とは比べられるわけもなく、よって易々と職になどありつけまい、との認識です。
そもそも40を前に博士課程なんて、アカデミックに殴り込み!という気持ちがあったわけもなく、ただ自分自身の興味から勉強したいことがあった、というだけなのです。
じゃあ40まで一体何をしていたんだ?ということなんですが、国際協力畑でサラリーマンと最後少し契約で働いていました。
長いようで短いそこでの経験というのは、職を得る上では財産ではあるのですが、いかんせん、勉強したいと思った動機が、国際協力という仕事に対する疑問だったもので、おいそれと戻れる感じでもないのですね。
アカデミックもダメ。唯一の経験有分野もダメ。
どうやって生きていくつもりなんだ?
チャレンジです。
インターネットもここまで普及して、各自学ぼうと思えばかなりな素材にアクセスできる。
大学通って学位を取らなければ知識を扱えないような時代ではもうないだろうと。
実際長々とほぼ6年をかけてドクターになってみて感じるのは、世間の学者って別に”研究命”ってわけではなくて、頭良いってだけでそこにいるんだな、ということ。
知識への純粋な愛なんて。。。
そんなのは”キレイごと”なわけです。
生きていく糧を得るのが先決。
理想(寝言)はそれを得てから言えと。
それでいいのか???
知識の番人を任じておきながら、知を愛していないとは何たる矛盾。いや詐欺ではないのか???
「知を愛する」なんていうとちょっと大げさですが、要するに学びたいって思ったら、学べばいいではないかと。
クォリティが問題だというのなら、”立派”と認められている人のを真似ればいい。
勿論簡単なことではない。簡単なら多くの人がもっと大学に頼らず研究をしていることだろう。
でも、研究なんて、いつやりたい!と思うのかなんて分からないし、大学に勤めているから研究したくなるのか?というとそんなわけもなさそうだ。つまり、大学に勤めている人々は、その多くの時間を研究なんてしたいって思ってなくても、仕事上仕方なく研究していることにしている場合も結構ある、ということ。無理もないです。
はっきりいいましょう。
現在人文社会科学系アカデミック が生み出している論文群は、おカネを払ってまでアクセスしなければならないものは1割もない、と。
そうは言っても、1割未満でも見るべき知識があるのなら、それを見分けられることが大事です。そのためには、アカデミックの流儀を知る必要があります。手っ取り早いのは大学で学ぶことですが、1割未満しか有益な知識を生み出してないような人に教育を受ければどうなるでしょうか?
よい成績評価のみを目指し、社会的使命感などろくにない、イタイ個人主義者たちを延々増産し続けるだけでしょう。結果はご覧の通りのモラルなき社会。
人文社会科学なんてまさに人間についての勉強。それを勉強すればするほど人間にやさしくない世界が広まるなんて、愚かといっても度が過ぎる。
学びたいと思ったときに学べて、へんてこりんな作法や評価に惑わされず、一定の答えっぽいものが得られれば、自然と知識や知識探究活動への愛も増していくのではないか?
諸事情によりくすぶっている人に、突破口を開けるようなお話を提供できればと考えています。
どうぞよろしくお願いいたします。